2008年02月16日

映画が泣けるワケ

映画が泣けるわけ・・・(前回の続きです→前回の話へ

Kissyは、自分のある経験から、こう考えました。

同じ映画を観て、涙を流して泣く自分もいれば、泣けない友人もいる。

同じ映画を初めてみたときには泣けなかったのに、何年かたってもう一度見たら、泣けて泣けて仕方がないほど泣けてしまったことがある。

「映画」そのものや、「映画のストーリ」「芸術性」「メッセージ性」そのものに「泣ける」理由があるとするなら、誰もが泣けるはずだし、いつ見ても泣けるはずなのに、そうではない。

「泣く」のは自分自身の心の動き・感情の動きそのものだから、きっと「映画そのもの」に泣ける理由を探すより、自分の中の「感情」「心」を見つめたほうが、納得のいく答えが探せるかもしれない。
けれども、「映画とは関係なく、泣くのは純然と心の動きだけだ」ということになれば、フィクションの映画で泣き、嘘の現実で泣かないということに納得がいかない。

これはどう考えればいいのか・・・?

そう考えて、「リンゴの赤」の話を自分で思い出したのです。

「調和」・・・そう映画だけでも、自分の心の動きだけでも成り立たない。

映画が、自分の心に触れて初めて響く「心の琴線」・・・泣けるのは、映画に理由があるのでもなく、自分が勝手に泣くのでもなく、「映画と映画を見る自分の心がお互いに調和し、響き合って初めて心が動くのだ」と、そう思うようになったのです。

だから、映画の語りかけるモノに響鳴する心の用意がなければ「心がふるえて泣く」ことはないですよね。

そういう意味で、映画は「泣く」ためのきっかけづくりにすぎないともいえますよね。
心の中にいろいろうごめいている感情の「泣ける」部分を突いただけともいえます。
ただ、「突かれる」準備がなければ、どんな映画でも泣けることはないですもん、ね。

ずっと昔、高校生の頃、失恋した直後にボーっとして入った映画館の映画は、とっても感動的な名作で、みんな泣いていたのですが、Kssyの心には何も響きませんでした。心が凍りついたまま見ていたからなんですよ、ね。

フィクションだとわかっている映画で泣けるのに、なぜ同じように「嘘だ」とわかっている現実では泣けないのか・・・

それは「映画だから」「嘘だから」・・・そういう違いではなくて、「それは自分の心に響くのか?」・・そう考えるべきだと、結論付けたのです。

ありゃりゃ・・・?ちょっとうまく書けてないなあ・・・もうちっとうまく説明したいんですけれど・・・残念。

けど、そんな風に考えると近づいてきます。
現実は、そこに初めから横たわって「ある」のではなく、対象と、自分の精神との共鳴によって生み出される・・・

「その映画は泣けるのか?」=あなたの心が受け止めた映画の印象は、あなたの心に響いたのか?

「そのリンゴは赤いのか?」=あなたの眼が受け止めたリンゴの印象は、あなたの意識に「赤い」という印象を与えたのか?

さて・・・こういう思索を何度もめぐらせる事が、私の人生にどんなふうに「糧」となってきたか・・・
次はいよいよKissy自身の「思索」に対する結論です。

・・・けど途中で寄り道しちゃうかも、ね^^



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Posted by kissy(岸本圭史) at 20:11│Comments(0)そのリンゴは赤いのか?
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