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2009年06月03日

晴れと褻~正常と異常はどこが違う?~

人間、何か同じようなものが集まると、なにかと「カテゴライズ」したがるのが常。
木になるオレンジ色の果物がたくさんあれば、「ミカン」「オレンジ」「はっさく」・・・そんな風に種類に分けたり・・・ミカンを収穫すれば、色で分けたり、大きさで分けたり・・・
どうしてそんな風に、区別をしたがるのかは分からない。実はこのこと・・・どうして人は物事を区別したがるのか?・・・も、長いこと色々考えたことがあるのだけれど、どう考えれば糸口が見つかるのかさえ見当がつかずにいる。
それはともかく。

「晴れ」と「褻」も、大きな意味で言えば「カテゴライズ」であることに変わりはない。

普段どおりの凡庸な日:褻
普段と違う特別な日:晴れ

ごく普通の日:褻
普通じゃない日:晴れ

通常=褻
特別=晴れ

・・・なんだかこんな風に区別をすると、「晴れ」と「褻」が、反対の事を言い表しているように思えてくるけれども・・・そうなんだろうか?そんな事を疑問に思ったことがある。

普通に受け止めれば、

反対のことを言い表している=異なる事を指し示している

と理解できるから、「晴れ」と「褻」が反対の事を言い表しているのであれば、「晴れ」「褻」は別々の、異なる事柄や物事を指し示していることになる。

ところで・・・
普段何気なく使っている言葉の中にも、「反対の事を言い表している」ように思える一対の言葉はいくつもある。すぐに思いつくだけでも・・・

健康⇔病気
正常⇔異常
恋愛⇔憎悪
尊敬⇔軽蔑
成長⇔衰退

よ~~く考えてみると、これらの言葉は、「全く別々のものの事を指し示している」のではないことに、比較的容易に気づけるはずだ。例えば「健康」と「病気」は、ある同じ人の状態の違いを指しているのであって、「ひとりの人」の事を指している点では変わりがない。「成長」と「衰退」もそうだ。同じように他の言葉もそう。

そして、さらによ~~く考察してみると、実はこれら「まったく別のもの」となんとなく理解している言葉、その区別は非常にあいまいなものだという事がわかる。例えば「健康」と「病気」・・・どこまでが健康で、どこまでが病気なの?「恋愛」と「憎悪」・・・どういう心の状態が「恋愛」で、それは「憎悪」とは何が違うの?

「可愛さ余って憎さ百倍」・・・これは同じように相手を想う気持ちが募りに募っているのに、愛情が憎悪に変わることを言い表しているけれど・・・それじゃあ、愛情と憎悪はほとんど同じってことじゃない?とも思えたりする。

そんな風にいろいろな別の事例に想いを馳せてみた上で、もう一度「晴れ」と「褻」を考えてみる。

「晴れ」も「褻」も、大きな時間の流れや、大きな生活習慣のサイクルのなかの、ある一部分を捉えて「特別でいつもと違う」と区別したり、「ほぼ大多数のいつもと同じ部分」とカテゴライズしたりした概念だと解釈できる。指し示しているのは、時間の流れや生活習慣の事を指しているのであって、その違いは、状態の違いでしかないとも解釈できる。

では・・・どんな事がどんな基準で「特別」と分類され、どんな事をどんな基準で「普段(=通常)」と分類されるのか。普段食べている当たり前の食事は、必ず「褻」かというと・・・そうでもない気がする。普段の食事を、きれいな器に盛って食卓に出したら、「晴れ」に早変わりだ。
そんな風に考えると・・・待てよ?・・・晴れと褻の区別は、食べ物の内容や衣装の違い、催し物の派手さ加減、生活習慣のサイクル・・・そういう表面的な「差」や「違い」のことではないのかもしれないな?・・・と、なんとなく思ったりもする。

いまだ、この事については考えがまとまらないけれども・・・少なくとも「晴れ」「褻」を厳然と区別して別物だと解釈するのは・・・どこか違うような気がする。
  

Posted by kissy(岸本圭史) at 19:51Comments(0)晴れと褻

2009年05月28日

晴れと褻:根付く ということ

Kissyは中学生の頃、高校生の頃、大学にいる頃、社会人になった頃・・・人生の節目節目で、ことごとく「音楽をあきらめろ」と親に言われていました。音楽なんぞに熱をあげてもロクなことにはならない、と。

中学の頃は、何も反論が出来なかった
高校の頃は、単に反発から逆ギレしただけだった
大学の頃は、ナニを言われようと関係ねえ!だった

社会人になった頃、初めてある想いが沸いてきた。

プロになるとか、これを仕事にするとか、そういう次元の話じゃないんだ。
生きている限り、何があっても音楽はやめない。

その時にこうも思った。
生きてれば誰だって息はするし、ご飯を食べる。ご飯が食べられなくなって、息が出来なくなったら、もう生きていられないのと同じで、僕は音楽ができなくなったら、生きていられないのと全く同じだ。音楽の出来ない人生は、生きながら死んでいるのと同じだ、と。

高校の時には部活の延長線上で、週に一度くらい
大学の頃はサークル活動の延長線上で、ほぼ毎日
社会人になりたてのころも、仕事の時間以外は、すべて音楽漬け
今は、月に何度鍵盤の前に座るか?年に何度人前に立つか?・・・そんなペースだけれど、若かった頃より想いは深く、細々とだけれどずっと続けていく気持ちが強くなっている。

昨年、ゴミ拾いをきっかけに、自分の住む街のことを考え始め、自分の住むところと、自分の周りにいる親しい人のことを考え始めた。今と、そして未来を。

はじめは徹底的にゴミ拾いすることだった。
それは、月に2回から始まって、次第に毎週となり、日課にった時期もあった。
1年たって、今は月に数回ゴミ拾いをするだけのペースに戻っている。けれど・・・
1年たって変わった事がある。

1年前は、毎月2回のゴミ拾いは、結構気合が必要なイベントだった。
1年後の今は、ゴミ拾いは「日常」になっている。

今は、朝ゴハンを食べるように、35年以上ピアノを弾き続けているのと同じように、「暮らし」の中に組み込まれた「普段の行い」となっている。

僕がNPOで実現したかった事はただひとつ。街のため、近しい大切な人のため、そしてそれは究極的に自分の為に取り組む事を、「一大イベント」に仕立て上げるのではなく、「日々の暮らし」の中の「普段の行い」として位置づける事だった。

ひと言で集約すれば、「根付く」、ということなのかも知れない。

普段とは違う、派手な事を行う「晴れの日」
普段の暮らしの、凡庸な繰返しの「褻の日」

僕にとってゴミ拾いは、「褻の日」の繰返しであるべきだ。だから、ムリをして頑張って続けられなくなるようなイベントにはしたくない。そう1年間言い続けてきた。
他の人のことは分からないけれども・・・少なくとも僕の中では、「ゴミを拾う」ということと、その意識は日常の中に根付いている。少なくとも僕の中では、ゴミ拾いをする事をNPOの活動として仰々しく行う、そういう時代はもう通り過ぎている。

さあ、次は何を日々の暮らしの中へ根付かせようか?
さて、何を根付かせれば、今日よりも明日、今よりも未来が、より良い人生を送れる社会になるか?  

Posted by kissy(岸本圭史) at 07:06Comments(2)晴れと褻

2009年05月24日

ハレとケ:日々の暮らしが辛いから・・・

こういう解釈の仕方で良いのかどうか、それさえも、もううろ覚えなので、全く根拠はないといっておいたほうが良いかもしれませんけれども・・・「晴れ」「褻」という言葉と概念に対して、いくつかある解釈のひとつとして、自分でこんな風に捉えてもいます。

「晴れ」と「褻」は、日本の古~~い生活習慣や風土から生まれたものだと・・・

ハレ=非日常で、きれいな着物を着飾り、普段は行かない場所へ普段はやらないことをやりにいく
ケ=日常で、ごく普通の衣服をまとい、普段どおりの場所で普段どおりのことを繰り返す

畑を耕し、田んぼに水をやり、農耕で暮らすことを基本としていた日本の生活習慣。普段は土にまみれ、泥のなかに手を入れて朝から晩まで土色の風景の中で過ごす。着るものは汚れや作業の負担に強いもの。
口にする食料は、蓄えの中から少しずつ消費する、質素な食事。現代のように備蓄が潤沢にあるわけじゃないから、日々の食事は最低限のものしか食べられなかっただろう・・・そんな風に、今の世の中からは考えられないような時代・・・今日を生き抜いて明日死なずに済むように暮らすことさえ難しかった頃は、きっとそういった毎日を繰り返し繰り返し過ごしていくことは、それだけでは辛く苦しいだけだったに違いないと思います。
そんな、「毎日の、生きるのに精一杯」の繰り返しから、一時だけ離れて、華やかな色に着飾り、気持ちを切り替えて、贅沢をする・・・そんな、年に数回あるかないか?の時には、天気が良くて色鮮やかな風景・色彩の中で過ごしたい・・・その頃の僕たちのご先祖様は、そんな風に思ったんじゃないかな?と・・・勝手にそう解釈しています。

「ハレ」が天気の「晴れ」の語源になっているのも、そういう事なんじゃないかな~?と勝手に想像していますが・・・^^;;

ひとつ、大学のときだったか、「ハレ」と「ケ」のことで印象深い解説を聞いたことがありました。

「晴れ」=非日常・「褻」=日常と、別のものとして区別されているが、これらは別々のものと意識されているわけじゃない。「褻」が日常=通常で、「晴れ」は非日常=特別な日=普段じゃない日、と別次元のものと解釈されがちだが、「褻」は「晴れ」があってこそ日常たりえるし、「晴れ」は「褻」があってこそ非日常足りえる。晴れの日は、普段の褻から浮世離れした世界へ移る特別な時だけれども、それは再び繰り返される「褻」=辛く苦しい毎日・・・を受け入れ、乗り越えるために作られた「別次元」だと、ある大学教授が解説してくれたのです。

Kissyはそれまで「晴れ」「褻」という考え方を、「日々の暮らしや生活の中の、全く異なる次元を言い表している、別のもの」というふうに、なんとなく捉えていましたが、この説明にハッとして、あらためて考えるようになりました。

普段の「褻」・・・圧倒的な割合で繰り返される、日々の暮らし・・・それがあるからこそ、普段ではない「晴れ」が生まれる。そして非日常の世界を現す「晴れ」は、その次に来る凡庸な「褻」の日々へ向かうための活力源として位置づけられる・・・そんな風に思うと、日本の風土や歴史、生活習慣というものへの興味とともに「晴れ」「褻」という考え方を、さらにさらに色々考えてみたくなるのでした。

う~~む・・・なんだか今回のテーマは壮大すぎて、毎回まとまりがない・・・ま、ひとり言だから、いっか^^;;?  

Posted by kissy(岸本圭史) at 17:08Comments(0)晴れと褻