2011年12月09日
世紀の大悪人
ハンナ・アーレントという女性哲学者がいる。
大学時代、著書「精神の生活」をゼミで読み解く作業をしながら、訳者佐藤和夫先生との議論の中で、何度も出てきたキーワードがあった。
悪というのは、何らか悪い思想を持っていることに起因するのではない。
モノを考えない、という無作為が巨悪を生み出すのだ。
この考え方は、当時とても印象に残っていて、その後今までの僕の人生の中で大きな価値観となって根付いている。
そして当時、同じゼミでこのような事も喧々諤々と議論をしていた。
どうやったら上手く行くか、どうやったら成功するか
そういう方法論に頭を使うというのは「モノを考える」という行為ではない
この事にはどんな価値・意味があるのか、私はそれをすべきなのか、社会はそれを認めるべきなのか
そういう議論に考えを巡らせること・・・それを不断の行いとして続けることこそが「考える」ということだ
自分の価値観の中で、「物事に真摯に向き合い考える」ということは価値のある、というよりは人間として生きるのに必要な営みだと思っている。その強烈な思いと信念は変わらない。
けれども、最近少し無力感にさいなまれることがある
自分の周囲を見渡した時に、そういう営みや行動に価値を認める人・組織が驚くほど少なくなっているということに。
時間の流れは同じようにしか与えられていないハズなのに、時代の流れはどんどん早くなり、結果を出す(=成果をだす、収益を出す、儲ける)事にたいしての要求がタイトにそして厳しくなり・・・いつのまにか「それでイイのだろうか?」と考えるのは「弱いことだ」「劣ることだ」と揶揄されるようになってきた気がする。
方法論と合目的的手段についてのみ「計算」するだけで、「物事を考える」行為をやめてしまったら・・・その先には自らが極悪・巨悪に手を染めることになるという結末が見え隠れするのに・・・
ニュースや、報道や、地域の動きを見ていて、ふとそんな思いがして、忘れないうちに書き留めておこうと思った。
けれど、自分は変えない
ゴミ溜めの片隅で 未来を唱え続ける
大学時代、著書「精神の生活」をゼミで読み解く作業をしながら、訳者佐藤和夫先生との議論の中で、何度も出てきたキーワードがあった。
悪というのは、何らか悪い思想を持っていることに起因するのではない。
モノを考えない、という無作為が巨悪を生み出すのだ。
この考え方は、当時とても印象に残っていて、その後今までの僕の人生の中で大きな価値観となって根付いている。
そして当時、同じゼミでこのような事も喧々諤々と議論をしていた。
どうやったら上手く行くか、どうやったら成功するか
そういう方法論に頭を使うというのは「モノを考える」という行為ではない
この事にはどんな価値・意味があるのか、私はそれをすべきなのか、社会はそれを認めるべきなのか
そういう議論に考えを巡らせること・・・それを不断の行いとして続けることこそが「考える」ということだ
自分の価値観の中で、「物事に真摯に向き合い考える」ということは価値のある、というよりは人間として生きるのに必要な営みだと思っている。その強烈な思いと信念は変わらない。
けれども、最近少し無力感にさいなまれることがある
自分の周囲を見渡した時に、そういう営みや行動に価値を認める人・組織が驚くほど少なくなっているということに。
時間の流れは同じようにしか与えられていないハズなのに、時代の流れはどんどん早くなり、結果を出す(=成果をだす、収益を出す、儲ける)事にたいしての要求がタイトにそして厳しくなり・・・いつのまにか「それでイイのだろうか?」と考えるのは「弱いことだ」「劣ることだ」と揶揄されるようになってきた気がする。
方法論と合目的的手段についてのみ「計算」するだけで、「物事を考える」行為をやめてしまったら・・・その先には自らが極悪・巨悪に手を染めることになるという結末が見え隠れするのに・・・
ニュースや、報道や、地域の動きを見ていて、ふとそんな思いがして、忘れないうちに書き留めておこうと思った。
けれど、自分は変えない
ゴミ溜めの片隅で 未来を唱え続ける
Posted by kissy(岸本圭史) at 09:24│Comments(0)
│日記