2009年10月31日
やるか、やらないか
やるか、やらないか
以前、飯倉さんとNPOを立ち上げようかどうしようか、という話をしていた頃に、共通していたキーワードがコレ。ごみ拾いをするのも、地域連携をするのも、人とつながるのも・・・何か「事を成そう」と思ったら、「思う」のではなく、「考える」のではなく、まずは行動すること。それが大切だという認識だった。
インターネットやメディアの普及と肥大化で、今は誰でも評論家になれるし、色々な場で自分の意見を述べる機会が増えた。増えて来た過程で、「匿名性」という隠れ蓑を悪用して誹謗中傷するような問題も出てきたが、その問題は少しずつ変化してきて、今は「他人から揶揄されることのないような、誰が読んでも賛同できる美辞麗句」というのが、もてはやされている・・・というよりは、ネットやマスメディアでモノを言うときには、そういう美辞麗句を並べ立てて文章を構築できる人間がクローズアップされる。
飯倉さんの想いとは別に、僕の「やるか」「やらないか」は、この問題が根幹にあった。
きれいごとなら、今は誰でも言える時代にある。やらなくても「言う」だけなら、きっと100人中100人が言うだろう。今はそれがトレンドとなっている時代だ。けれども、「言う」より早く「行動」に移すことのできる行動力は、そこに本当の「想い」がなければできないことだ。
だから、「やるか、やらないか」をキーワードにしてきた。
飯倉さんとは、このキーワードについて、何度も何度も、それこそお互い考えていることの隅々まで分かるほどに話を詰めた・・・と僕は想っているけど、彼は「そんなことしましたっけ?」というかもしれないなあ・・・それはともかく・・・。だから、同じ想いと同じバックボーンと、同じ視野を共有できていると、自負していたけれども・・・どうやらこの言葉は、いつの間にかひとり歩きして、曲解され始めているらしい。
僕の、ややもするとドギツイ言葉の使い方に、好戦家・武闘派と印象を持たれる方へ、想うところを伝えるという意味も含めて、一度書いておこうと思う。
以前、飯倉さんとNPOを立ち上げようかどうしようか、という話をしていた頃に、共通していたキーワードがコレ。ごみ拾いをするのも、地域連携をするのも、人とつながるのも・・・何か「事を成そう」と思ったら、「思う」のではなく、「考える」のではなく、まずは行動すること。それが大切だという認識だった。
インターネットやメディアの普及と肥大化で、今は誰でも評論家になれるし、色々な場で自分の意見を述べる機会が増えた。増えて来た過程で、「匿名性」という隠れ蓑を悪用して誹謗中傷するような問題も出てきたが、その問題は少しずつ変化してきて、今は「他人から揶揄されることのないような、誰が読んでも賛同できる美辞麗句」というのが、もてはやされている・・・というよりは、ネットやマスメディアでモノを言うときには、そういう美辞麗句を並べ立てて文章を構築できる人間がクローズアップされる。
飯倉さんの想いとは別に、僕の「やるか」「やらないか」は、この問題が根幹にあった。
きれいごとなら、今は誰でも言える時代にある。やらなくても「言う」だけなら、きっと100人中100人が言うだろう。今はそれがトレンドとなっている時代だ。けれども、「言う」より早く「行動」に移すことのできる行動力は、そこに本当の「想い」がなければできないことだ。
だから、「やるか、やらないか」をキーワードにしてきた。
飯倉さんとは、このキーワードについて、何度も何度も、それこそお互い考えていることの隅々まで分かるほどに話を詰めた・・・と僕は想っているけど、彼は「そんなことしましたっけ?」というかもしれないなあ・・・それはともかく・・・。だから、同じ想いと同じバックボーンと、同じ視野を共有できていると、自負していたけれども・・・どうやらこの言葉は、いつの間にかひとり歩きして、曲解され始めているらしい。
僕の、ややもするとドギツイ言葉の使い方に、好戦家・武闘派と印象を持たれる方へ、想うところを伝えるという意味も含めて、一度書いておこうと思う。
「やるか・やらないか」・・・それが問題なのだ
そう言った背景には、当初「隠れた私利私欲の想いを、言葉巧みに隠して近づいてくる」輩をシャットアウトするために使っていた。行動しようとしないのに、旗だけは欲しがる・・・袁紹のような・・・。
けれども、そんな風にキツく独善的な言葉を使いながらも、僕は単に「やるのか」「やらないのか」だけを迫るような浅はかな真似はしまい、と肝に銘じながら、この言葉を使ってきた。
「やらない」からダメ。
「やる」から良い。
そんな短絡的な想いではない。
人にはそれぞれ、想いがあり、立場があり、「今」という時間がある。
「やらない」人が未来永劫「やらない」」ままだとは限らない。「今」は想いが違い、立場が違っても、いずれ、いつかは一緒に手を動かし、汗をかく日が来るかもしれない。今、行動しない人を「ヤツはダメだ」と指を指すような真似をすれば、それは僕自身が、自分の最も嫌う浅はかで思慮に欠けた人間に落ちぶれたことになってしまう。
同じ意味で、「行動している」人間を、安直に「良い」と認めるような真似もすべきではないと、常日頃自分に言い聞かせてきた。
「物事を成す」には、やり遂げる覚悟と、成し遂げる思慮深さと、継続する人間力が必要だ。
覚悟とは、「よっしゃ、やったるぞ!」などという安直な気合のこととは厳然と異なる。
思慮深さとは、単に策を弄するだけ、プランニングするだけという「頭の回転の速さ・良さ」とはレベルの違う話だ。
人間力とは、単に人が良い・コミュニケーション能力が優れているなどという、単一の能力とは違う、もっと幅の広く奥の深いものだ。
「行動を起こし、物事を成し遂げようとしている」人を尊敬し、お手伝いをしようというのなら、その行動力・洞察力・思慮深さをきちんと見極める必要があると考えてきた。そして、見極めるためには、自分自身の中に、見極めるだけの度量が必要だ、と。
僕自身は、できた人間でも褒められる人間でもない。見極める度量など毛頭持ち合わせていない。持ち合わせていない力を補うために、どうすれば良いか・・・30を過ぎた頃から、必死で考えて、ある結論にたどり着いた。
逆立ちしてもかなわない能力なら、教えを乞い、協力を求め、仲間を募るべきだ、と。
そして、ひとり熟慮しても見極められないのなら、言葉に出して問い正し、見極めるべき材料を集めるべきだ、と。
結果、僕の目の前に現れた、教えを請うべき相手は、10歳以上も年下の若者だったり、僕よりも過酷な環境で生きる人だったり、あるいは女性、あるいは子供、ある時は世間が冷ややかに見てみぬふりをする「障がい者」だったりした・・・彼ら・彼女らは、僕がどう努力してもたどり着くことのできないモノを持ち、尊敬・敬服に値するほどの魅力や想いを備えていた。だから、頭を下げ、礼を尽くし、教えを請うた。自分が如何に能力が乏しいのかを、その教えを請う過程で、骨身にしみるほど思い知った。
だから、能力の乏しい自分が事を成すために・・・その為に行動を起こし、仲間と手をつないだ。
そして、仲間を見極めるために、想いと覚悟と行動力を見極めるために、僕は唯一持っている「言葉で問いただす」という手段を使っている。
「やるか」「やらないか」・・・それは僕にとって、他人が行動するかしないか、物差しにかけるような傲慢な指標ではない。「人を尊敬できるか」「自分に恥ずべきところはないか」・・・それを自ら再確認するために、自分に課したキーワードだ。
そう言った背景には、当初「隠れた私利私欲の想いを、言葉巧みに隠して近づいてくる」輩をシャットアウトするために使っていた。行動しようとしないのに、旗だけは欲しがる・・・袁紹のような・・・。
けれども、そんな風にキツく独善的な言葉を使いながらも、僕は単に「やるのか」「やらないのか」だけを迫るような浅はかな真似はしまい、と肝に銘じながら、この言葉を使ってきた。
「やらない」からダメ。
「やる」から良い。
そんな短絡的な想いではない。
人にはそれぞれ、想いがあり、立場があり、「今」という時間がある。
「やらない」人が未来永劫「やらない」」ままだとは限らない。「今」は想いが違い、立場が違っても、いずれ、いつかは一緒に手を動かし、汗をかく日が来るかもしれない。今、行動しない人を「ヤツはダメだ」と指を指すような真似をすれば、それは僕自身が、自分の最も嫌う浅はかで思慮に欠けた人間に落ちぶれたことになってしまう。
同じ意味で、「行動している」人間を、安直に「良い」と認めるような真似もすべきではないと、常日頃自分に言い聞かせてきた。
「物事を成す」には、やり遂げる覚悟と、成し遂げる思慮深さと、継続する人間力が必要だ。
覚悟とは、「よっしゃ、やったるぞ!」などという安直な気合のこととは厳然と異なる。
思慮深さとは、単に策を弄するだけ、プランニングするだけという「頭の回転の速さ・良さ」とはレベルの違う話だ。
人間力とは、単に人が良い・コミュニケーション能力が優れているなどという、単一の能力とは違う、もっと幅の広く奥の深いものだ。
「行動を起こし、物事を成し遂げようとしている」人を尊敬し、お手伝いをしようというのなら、その行動力・洞察力・思慮深さをきちんと見極める必要があると考えてきた。そして、見極めるためには、自分自身の中に、見極めるだけの度量が必要だ、と。
僕自身は、できた人間でも褒められる人間でもない。見極める度量など毛頭持ち合わせていない。持ち合わせていない力を補うために、どうすれば良いか・・・30を過ぎた頃から、必死で考えて、ある結論にたどり着いた。
逆立ちしてもかなわない能力なら、教えを乞い、協力を求め、仲間を募るべきだ、と。
そして、ひとり熟慮しても見極められないのなら、言葉に出して問い正し、見極めるべき材料を集めるべきだ、と。
結果、僕の目の前に現れた、教えを請うべき相手は、10歳以上も年下の若者だったり、僕よりも過酷な環境で生きる人だったり、あるいは女性、あるいは子供、ある時は世間が冷ややかに見てみぬふりをする「障がい者」だったりした・・・彼ら・彼女らは、僕がどう努力してもたどり着くことのできないモノを持ち、尊敬・敬服に値するほどの魅力や想いを備えていた。だから、頭を下げ、礼を尽くし、教えを請うた。自分が如何に能力が乏しいのかを、その教えを請う過程で、骨身にしみるほど思い知った。
だから、能力の乏しい自分が事を成すために・・・その為に行動を起こし、仲間と手をつないだ。
そして、仲間を見極めるために、想いと覚悟と行動力を見極めるために、僕は唯一持っている「言葉で問いただす」という手段を使っている。
「やるか」「やらないか」・・・それは僕にとって、他人が行動するかしないか、物差しにかけるような傲慢な指標ではない。「人を尊敬できるか」「自分に恥ずべきところはないか」・・・それを自ら再確認するために、自分に課したキーワードだ。
Posted by kissy(岸本圭史) at 18:20│Comments(0)
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