2009年09月26日
コーヒーの味わい
コーヒーの美味さを理解するには、美味しいといわれるコーヒーを何度も飲んだ経験がなければ分からない。生まれて一度もコーヒーを飲んだことのない人が、コーヒーを初めて飲んだら、ただ苦いだけの黒い飲み物、としか思えないだろうと思う。実際、僕も含めて、子供の頃はコーヒーなんて苦いだけで美味しいと思ったことなどなかった。自ら進んで飲もうと思ったことなんて、一度もない(牛乳と砂糖をたっぷり混ぜて甘~~い味にして飲んだ覚えはあるけれど・・・)。
それが、大人になって気づいたら、コーヒーは朝食の後に欠かせないものとなり、仕事の合間にホッと一息つきたいときに最高の飲み物となっている
子供の頃は不味いと思っていた飲み物が、いつの間にか最高に美味しい飲み物に変わっている。ビールもそうだ。飲み物でなくても、例えばわさび漬けとか、とろろとか納豆とか、僕にとっては色々なものが、いつの間にか大好物になっている。
どうしてそういう変化が起こったのか・・・理由は簡単だ。これまで生きてきた人生の中で、何度もコーヒーを飲んで「美味しい」と言われる味を味わい、ビールの美味さを何度も味わい、わさびの「辛味の中の甘味」を何度となく感じ取ることで、僕の中の「美味しさ」という感性や記憶が形作られてきた、その結果だ。
欧米の方は、ステーキ(肉)を食べるときに、ほとんど何も味付けをせずに焼いて肉の味そのものを味わう、という食べ方をする人も多いと聞くが、僕にはそういう味わい方はまったく出来ない。肉は塩コショウなり、ステーキソースなり、何らかの「味付け」をして食べると言う経験しかしたことがないからだ。
どの食べ物の味わいにしても、共通して言えること。それは「本当に美味しいといわれる味を何度も味わってこそ、美味しさをきちんと感じ取ることができるようになる」ということ。生まれてからずっと、インスタントコーヒーしか飲んだことのない人には、インスタントコーヒーの美味しさの違いは分かっても、本当のコーヒーの味わいがどういうものなのかは分かりようがない。
これは食べ物のことだけではないと思う
人が
美味しいと思うもの
美しいと感じるもの
素晴らしいと感動するもの
侘しい・寂しいと味わうもの
そういうもの・・・少し風呂敷を大きく広げて言えば、「芸術」や「文化」や「民族感性」のようなもの・・・は、何も素地のない感覚には受け入れることができない。
夕陽を「美しいけれどどことなく物悲しい」と感じることが出来るのは、夕陽が沈む時間帯のなんとなく気忙しいような、それでいて家に帰りたいと郷愁のような想いにとらわれるような、そういう経験を何度も経験しなければ感じられない。
生まれたばかりの赤ん坊が、
お化けを何も怖がらないのと同じように、
スピーカーから奏でる音楽を聴いて怖がるのと同じように
経験のない物事に対して、良し悪しや素晴らしさを感じることは出来ないと思う。
逆に言えば、芸術や文化や風習と言うものに対して、豊かな感性を持つためには、さまざまな経験を積み、記憶の中に色々な「素晴らしさ」を蓄えることが必要なのだと思う。
文化や芸術を理解するには、質の高い文化や芸能・芸術をたくさん体験し、見聞きし、味わうことが必要なのだと思う。そしてその「経験」やその「蓄積」から眺める景色こそが、その人の文化性・芸術性・感性となるのだと思う。
そう、コーヒーを味わうためには、たくさんの美味しいコーヒーを飲んでこそ味わえるのと同じように・・・
僕にとって、文化や芸術はコーヒーの味わいだ
もちろん、そういう感性を育むための素地がなければ、何も生まれない。カントはそれを「アプリオリ」と言った。経験に先立つモノが必要だと・・・けれども、やはり「アプリオリ」な感性は、その後の経験がなければ、何も生み出さない。
目の前で奏でられる音楽
舞台で観る演劇
祭りや催し物で見る街の賑わい
人が集まって意見を交わすその熱気
その現場に居合わせて経験するたびに思う
今目の前に見ているものを、素晴らしいと思えるかどうか・・・
それは、これまで生きてきた人生の中に、そういうモノの素晴らしさを味わうだけの経験を積んできたか?と突きつけられていることに他ならない
僕は今、試されている、と
それが、大人になって気づいたら、コーヒーは朝食の後に欠かせないものとなり、仕事の合間にホッと一息つきたいときに最高の飲み物となっている
子供の頃は不味いと思っていた飲み物が、いつの間にか最高に美味しい飲み物に変わっている。ビールもそうだ。飲み物でなくても、例えばわさび漬けとか、とろろとか納豆とか、僕にとっては色々なものが、いつの間にか大好物になっている。
どうしてそういう変化が起こったのか・・・理由は簡単だ。これまで生きてきた人生の中で、何度もコーヒーを飲んで「美味しい」と言われる味を味わい、ビールの美味さを何度も味わい、わさびの「辛味の中の甘味」を何度となく感じ取ることで、僕の中の「美味しさ」という感性や記憶が形作られてきた、その結果だ。
欧米の方は、ステーキ(肉)を食べるときに、ほとんど何も味付けをせずに焼いて肉の味そのものを味わう、という食べ方をする人も多いと聞くが、僕にはそういう味わい方はまったく出来ない。肉は塩コショウなり、ステーキソースなり、何らかの「味付け」をして食べると言う経験しかしたことがないからだ。
どの食べ物の味わいにしても、共通して言えること。それは「本当に美味しいといわれる味を何度も味わってこそ、美味しさをきちんと感じ取ることができるようになる」ということ。生まれてからずっと、インスタントコーヒーしか飲んだことのない人には、インスタントコーヒーの美味しさの違いは分かっても、本当のコーヒーの味わいがどういうものなのかは分かりようがない。
これは食べ物のことだけではないと思う
人が
美味しいと思うもの
美しいと感じるもの
素晴らしいと感動するもの
侘しい・寂しいと味わうもの
そういうもの・・・少し風呂敷を大きく広げて言えば、「芸術」や「文化」や「民族感性」のようなもの・・・は、何も素地のない感覚には受け入れることができない。
夕陽を「美しいけれどどことなく物悲しい」と感じることが出来るのは、夕陽が沈む時間帯のなんとなく気忙しいような、それでいて家に帰りたいと郷愁のような想いにとらわれるような、そういう経験を何度も経験しなければ感じられない。
生まれたばかりの赤ん坊が、
お化けを何も怖がらないのと同じように、
スピーカーから奏でる音楽を聴いて怖がるのと同じように
経験のない物事に対して、良し悪しや素晴らしさを感じることは出来ないと思う。
逆に言えば、芸術や文化や風習と言うものに対して、豊かな感性を持つためには、さまざまな経験を積み、記憶の中に色々な「素晴らしさ」を蓄えることが必要なのだと思う。
文化や芸術を理解するには、質の高い文化や芸能・芸術をたくさん体験し、見聞きし、味わうことが必要なのだと思う。そしてその「経験」やその「蓄積」から眺める景色こそが、その人の文化性・芸術性・感性となるのだと思う。
そう、コーヒーを味わうためには、たくさんの美味しいコーヒーを飲んでこそ味わえるのと同じように・・・
僕にとって、文化や芸術はコーヒーの味わいだ
もちろん、そういう感性を育むための素地がなければ、何も生まれない。カントはそれを「アプリオリ」と言った。経験に先立つモノが必要だと・・・けれども、やはり「アプリオリ」な感性は、その後の経験がなければ、何も生み出さない。
目の前で奏でられる音楽
舞台で観る演劇
祭りや催し物で見る街の賑わい
人が集まって意見を交わすその熱気
その現場に居合わせて経験するたびに思う
今目の前に見ているものを、素晴らしいと思えるかどうか・・・
それは、これまで生きてきた人生の中に、そういうモノの素晴らしさを味わうだけの経験を積んできたか?と突きつけられていることに他ならない
僕は今、試されている、と
Posted by kissy(岸本圭史) at 08:45│Comments(0)
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