2007年09月11日
自然ということば
今回のは完全にひとりごと。思いついたままのお話です。
学生のころ、あるゼミでこういう話をきき、なるほどなあ、と思ったことがあります。
日本語で言う「自然」という意味にぴったり合致する言葉が、英語やドイツ語など欧米の言葉には見当たらない・・・・。「Nature」という言葉が一般的に「自然」と訳されているが、文化・文明の違い、歴史の違い、そしてそこからくる世界観の違いなどを鑑みる(かんがみる)と、微妙なニュアンスだが、確かに「Nature」と「自然」とは、指し示すものが違っている。
その当時は、分かったつもりで実はなんのこっちゃ?という感じだったのですが、最近になって、そのことがちょっとわかったような気がします。
日本って、いろいろなものに魂が宿り、神が宿ると考えることが多いですよね?そして宗教だとか思想だとかとは関係なく、あまり抵抗なくそういうことを受け入れている気がします。たとえば、「森の神様」とか「山の神様」とか・・・食べ物として口にするお米や野菜や、そして花にも神様が宿っている・・・はっきり「思想」として認識することはなくても、子供のころにおじいちゃん・おばあちゃんからこんな類のことを聞いた記憶がうっすら残っていて、それを「原体験」の一つとして受け入れてます。たぶん多くの人はそうじゃないでしょうか?
だから、生きているものすべてお互いに依存しあって生きている。周りの環境の中で生かされている、ということをはっきり認識して受け入れるのに、あまり抵抗がないように思います。けれども、どうやら西洋的なものの考え方だと、森や山や海、川、そして動物や植物は、「人間がいかに幸せに生きるか?」のために、コントロールし、支配下に置くべきもの、と考えるようです。だから、地球温暖化対策、という話も、根本は、「地球が危ない=人類の存続が危ない」という話のように聞こえる。
「自然」という言葉には、もしかしたら「人間が存在していなくても、ありのままに存在し続ける世界」という意味をも含んでいるような気がします。だから、「人間が文化的に生きるために、対峙(たいじ)しなければならない対象物」という意味ではなく、「この世界を取り囲むすべてのもの」という意味に近い気がするのです。
言語学的、文化学的に正しいかどうかはわかりません。そんな気がするだけなので。
けれども、そういう意味で「自然」という言葉を、そして考え方をとらえて、発信していったら、ちょっとは世界観が変わってくるのかな?そして環境問題なんかも少し違ったとらえ方になってくるのかな?と、ほんとうに「ふと」思うKissyです。
対峙する:向き合うこと。「対立する者同士がにらみ合ったままじっと動かずにいること」。単に「向き合っている」だけのことではなく、相いれず、じっと動かずにいる、そういうイメージを含んでいます。