2005年11月12日
目的と手段の乖離(かいり)
先日、テレビである高名なお寺の僧侶の方のお話を聞き、大変感銘を受けました。「禅とは何か?」という事に簡潔に答えられた際のお話なのですが、かいつまんでお伝えすると・・・
一般的に「悟りを開く」事を目的に「座禅をする」と捉える方が多いが、禅の心とはそういうものではない。「悟り」を目的に、「禅」を手段に、と二物を作るから迷うのです。何かの目的のために「禅を組む」のではなく、「禅を組む」事そのものが、すなわち「悟り」なのだから、禅を組むのに「何かの目的のために」という心構えで臨むべきではないのです。
「これをやったらどういう結果が出るか」「それをすると、どういう得になるか」「どういうメリットがあってそれをやるのか」・・・世の中のことを、すべからくそういった「損得」「目的意識」だけで判断し、それを当然と思ってしまいがちな傾向にある、私たち現代人にとっては、「目的があるからやるのではない。行うことそのものがすなわち目的であり結果なのだ」という考え・・・つまりは何の損得もなく、只々ひたすらに事を行う・・・・こういう考え、教えは、 Kissyにとっては非常に衝撃的でもあり、大いなる感銘を受けました。
ぜひとも、このコーナーをお読みになっている方にも、そういう教え・考えがある、ということを知ってほしくて、少し堅い話ですが、ここへ書かせていただきました。
一般的に「悟りを開く」事を目的に「座禅をする」と捉える方が多いが、禅の心とはそういうものではない。「悟り」を目的に、「禅」を手段に、と二物を作るから迷うのです。何かの目的のために「禅を組む」のではなく、「禅を組む」事そのものが、すなわち「悟り」なのだから、禅を組むのに「何かの目的のために」という心構えで臨むべきではないのです。
「これをやったらどういう結果が出るか」「それをすると、どういう得になるか」「どういうメリットがあってそれをやるのか」・・・世の中のことを、すべからくそういった「損得」「目的意識」だけで判断し、それを当然と思ってしまいがちな傾向にある、私たち現代人にとっては、「目的があるからやるのではない。行うことそのものがすなわち目的であり結果なのだ」という考え・・・つまりは何の損得もなく、只々ひたすらに事を行う・・・・こういう考え、教えは、 Kissyにとっては非常に衝撃的でもあり、大いなる感銘を受けました。
ぜひとも、このコーナーをお読みになっている方にも、そういう教え・考えがある、ということを知ってほしくて、少し堅い話ですが、ここへ書かせていただきました。
Posted by kissy(岸本圭史) at 12:00│Comments(0)
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