2009年04月30日
「街」と「想い」と「春風火舞」さん
「街」ってなんなのだろう?って最近よく考える。仕事で、NPO活動で、個人的な参加で・・・色々なカタチで、「街のイベント」に参加するたびに色々考えさせられる。
人がたくさん集まった、その「場所」を単純に「街」と言っていいわけじゃないと思う。
地図上に線を引いて囲めば、それで街が出来上がる、という事でもない。
「街を元気に!」「街を活性化しよう!」「伊豆をひとつに!」「伊豆を元気に!」・・・色んな言われ方で、僕たちの住む「街」が語られる。
同じ地域に住む人たちの集まりを「街」といい、線で囲った特定の地域を「街」と言うためには、単純に人がたくさんいればイイ、線を引けばイイというものではなくて、そこには、何か「目的」というか、「想い」というか・・・そういう「共有すべきもの」が必要になるような、そんな感じがする。
共有すべきものってなんだろう・・・?どういう事を共有することが、「単なる同じ場所に住んでいるというだけの集合」を「街」というものにカタチ作っていくのだろう?
例えば、巨大な企業がドン!とひとつあって、その企業の周りに従業員が全員住んでいて・・・そこにひとつの「街」が出来上がる、なんていう形もあるだろう。
例えば、「観光」というような産業の特色を生かして、その土地の産業が潤い、そこに共通意識が生まれて「観光の街」というものが出来上がる、それもアリだと思う。
どんな土地のどんな人にも当てはまるような「街の定義」なんてものを追及してみても意味がない。その土地、その場所、そこに住む人それぞれの特性に合った「街」のあり方、共有すべきものや意識を、それぞれに築き上げていけばよいのだろうと、そんな風に思ってみたりもする。
全員が全員、携わっているわけではないけれど、その街に行くと誰も彼もが熱くサッカーを語る、サッカーの街、とか
豊かな自然をこよなく愛して大切にする意識が、住んでいる人全員に共通している、自然愛護の街、とか
歴史的な建物や文化が色濃く残っていて、それを大切にする意識のとても高い、歴史の街、とか・・・
色んな街のあり方があるのだろうと・・・
先日、修善寺芸能処「桂座」の、ちょっとだけお手伝いをさせていただいたときに、「ああ、こんな風に創る街もアリなのかな?」と思ったりした。
芸能を鑑賞しに、お寺さんの境内に地元の人たちが集まる。それをみんなが楽しみに待っている。そこへ集う演者と観客が、「芸能」というものを通じてひとつのカタチを創っていく・・・そういうのもイイなあ、と。宗教とか信条とか、そういうもので括るのではなく、そこに暮らす人の心のよりどころのひとつとして「お寺」が役割を担う・・・そこからひとつの「街」としてのカタチが創られていく・・・それはきっと、古き時代への回顧ではなく、かつての文化を復興させるのでもなく、これから始まる文化であり芸能であり、街を形創る「共有すべき財産」・・・そんな匂いを、なんとなく感じたりしていた。
春風火舞さんが、その桂座にぜひ出たいと言っている。
福祉・介護といった、人への思いやりがとても大切で必要とされる仕事に就きながら活動されている彼らが「ぜひ桂座へ!」と想いを寄せるのは、きっとそういう「そこに暮らす人の想い」という匂いを敏感に感じ取っているのかもしれない、と・・・そんな風にも想ったりした。
きっと彼らも「街」というものに対して、想いを持っているのだろうなあ・・・。
人がたくさん集まった、その「場所」を単純に「街」と言っていいわけじゃないと思う。
地図上に線を引いて囲めば、それで街が出来上がる、という事でもない。
「街を元気に!」「街を活性化しよう!」「伊豆をひとつに!」「伊豆を元気に!」・・・色んな言われ方で、僕たちの住む「街」が語られる。
同じ地域に住む人たちの集まりを「街」といい、線で囲った特定の地域を「街」と言うためには、単純に人がたくさんいればイイ、線を引けばイイというものではなくて、そこには、何か「目的」というか、「想い」というか・・・そういう「共有すべきもの」が必要になるような、そんな感じがする。
共有すべきものってなんだろう・・・?どういう事を共有することが、「単なる同じ場所に住んでいるというだけの集合」を「街」というものにカタチ作っていくのだろう?
例えば、巨大な企業がドン!とひとつあって、その企業の周りに従業員が全員住んでいて・・・そこにひとつの「街」が出来上がる、なんていう形もあるだろう。
例えば、「観光」というような産業の特色を生かして、その土地の産業が潤い、そこに共通意識が生まれて「観光の街」というものが出来上がる、それもアリだと思う。
どんな土地のどんな人にも当てはまるような「街の定義」なんてものを追及してみても意味がない。その土地、その場所、そこに住む人それぞれの特性に合った「街」のあり方、共有すべきものや意識を、それぞれに築き上げていけばよいのだろうと、そんな風に思ってみたりもする。
全員が全員、携わっているわけではないけれど、その街に行くと誰も彼もが熱くサッカーを語る、サッカーの街、とか
豊かな自然をこよなく愛して大切にする意識が、住んでいる人全員に共通している、自然愛護の街、とか
歴史的な建物や文化が色濃く残っていて、それを大切にする意識のとても高い、歴史の街、とか・・・
色んな街のあり方があるのだろうと・・・
先日、修善寺芸能処「桂座」の、ちょっとだけお手伝いをさせていただいたときに、「ああ、こんな風に創る街もアリなのかな?」と思ったりした。
芸能を鑑賞しに、お寺さんの境内に地元の人たちが集まる。それをみんなが楽しみに待っている。そこへ集う演者と観客が、「芸能」というものを通じてひとつのカタチを創っていく・・・そういうのもイイなあ、と。宗教とか信条とか、そういうもので括るのではなく、そこに暮らす人の心のよりどころのひとつとして「お寺」が役割を担う・・・そこからひとつの「街」としてのカタチが創られていく・・・それはきっと、古き時代への回顧ではなく、かつての文化を復興させるのでもなく、これから始まる文化であり芸能であり、街を形創る「共有すべき財産」・・・そんな匂いを、なんとなく感じたりしていた。
春風火舞さんが、その桂座にぜひ出たいと言っている。
福祉・介護といった、人への思いやりがとても大切で必要とされる仕事に就きながら活動されている彼らが「ぜひ桂座へ!」と想いを寄せるのは、きっとそういう「そこに暮らす人の想い」という匂いを敏感に感じ取っているのかもしれない、と・・・そんな風にも想ったりした。
きっと彼らも「街」というものに対して、想いを持っているのだろうなあ・・・。
Posted by kissy(岸本圭史) at 00:43│Comments(0)
│日記