世界はそれを愛と呼んでいいのか ~2~

kissy(岸本圭史)

2008年03月21日 20:15

何だかんだとやっているうちに、前回(~1~)から1ヶ月もたってしまいました・・・
(^^;;)・・・さて・・・

僕:「僕は彼女を愛している。彼女を守り抜くためなら、自分の命さえ惜しくない・・・。」

彼女:「「私は彼を愛している。最後まで愛し抜くためには、命があってこそ。だから、軽々しく命を投げ出したりしない。彼を愛するためにも、私は最後まで生き抜く。」

この彼と彼女、お互いに相思相愛で愛し合っていたとして、愛情の質・深さ・強さ・・・それを「同じだ」と言えるでしょうか?
・・・・・・そうですよね、そもそも彼の気持ちと彼女の気持ち、質だろうが量だろうが強さ弱さだろうが・・・どんな基準でも「比べられるようなモノ」ではないですよね。

ところが・・・前回「ちょっと待った!」と言わせてもらったのは・・・

「僕は彼女を想っている。彼女も僕と同じように想っている。一方的に僕だけが愛しているわけじゃない。同じ気持ちを共有している。だからそれは愛だ。」

「同じ思いを共有している=調和だ」だから愛だ・・・そう言っているんですね。

じゃあ、同じじゃなかったら、共有していなかったら、調和していなかったら・・・?
もっとわかりやすく言えば、
君と彼女の気持ちが同じだなんて、確かめるすべはないし何の根拠もないぜ?それなのに「同じだ」と簡単に言ってしまっていいのか?

じゃあ、もし君が思うほどに彼女が君のことを愛してくれてはいなかったら・・・?
もしそうだとしたら・・・それは愛と呼ばないのか?

相手の気持ちが自分と同じくらい深い「ハズだ」・・・だから愛だ、という前提になってしまうのが、そもそも疑わしい、とKissyは思うんですよ、ね。

そうでなくってさ・・・

相手がどれほど自分のことを想ってくれているか、それを何も疑わずにただ「愛してると言ってくれるからきっと愛してくれてるんだ」と満足してしまっては、いかんでしょう?
相手の気持ちがどの程度深いか、強いか・・・それを(本当は確かめられもしないのに)確かめたつもりになって安心し、そして自分の愛を確信する・・・それを愛と呼んでいいのか?

それよりも、
もしかしたら、僕が思うほどに強く、彼女は僕を想っているわけじゃないかもしれない
もしかしたら、大切にする仕方もちがうかもしれない
もしかしたら、彼女は僕が求めているような愛し方をしてくれないかもしれない
・・・だとしても、僕が彼女を愛しているという気持ちには何の変りもない。

そういう風に、「相手が想ってくれるかどうか?」で自分の愛情の深さを決めるのではなく、自分が「彼女を愛する」という気持ちに対して覚悟をする・・・その覚悟の強さで・・・それを愛だというのなら、それは、盲目的に「きっと彼女も愛してくれてる、だから愛だ」というよりも、よほど強い、深い、そしていとおしい心の在り様じゃないかな?と思うのです。

もちろん、最後の最後のところで、「彼女も僕を愛してくれているに違いない」・・・そういう風に信じる気持はかわらないけれど、

初めから信じて疑わない、盲目的に信じるのと、
もしかしたら?という不安もすべて受け入れた上で「信じる」と心にきめて信じるのでは、

気持の強さ・深さ・いとおしさは全然違うと思うのです。

だから・・・

関連記事