「次は結論です」なんつって、もう横道にそれます・・・^^;
「りんごの赤さ」ひとつとってみたって、「赤さ」加減は人によって千差万別。
言葉で「赤だ」とは共通しても、本当にその人に見えている「赤」が、自分の見えている「赤」と同じ赤か?と突き詰めて考えれば、それは断言できなくなってしまいますよ、ね。
映画が泣けるワケでもそうでした。
同じ映画を見ているのに、ストーリにすすり泣く人もいれば、その音楽に触発されて泣く人もいれば、同じ映画を同じ場所で同じ気持ちで見ているのに泣かない人だっている。
りんごの色そのものが、自分と無関係にそこに厳然と「ある」のではなく、
泣ける映画というものが、自分の感情とは無関係にそこに「ある」のでもない
それらは自分が認識し、心で感じ取ってはじめて、「赤」になり、「泣けるストーリ」として結実します。
・・・ということは、ですよ?
人によって「映画」は泣ける映画にもなれば、全然泣けないストーリにもなる。
極端なことを言えば、りんごが、その人によっては赤くは見えない・・・いや、そりゃ本人には「赤」と意識されているんだけど、実はその人は色弱者で、赤とオレンジを識別できなかったりすれば、赤=オレンジ・・・そういう色に見えるってことも、アリですよね(Kissyは実際にそういう人を知っています)。
だから、
「だれの目にもこのリンゴは自分が感じているのと同じ赤だ」とは言えないし
「だれが見たってこの映画は自分が泣いたのと同じように泣ける」とも、とっても言い切れるものじゃあありません。
さてさて・・・それなら・・・
道を歩いていてそこに落ちていた丸い石ころ・・・それ、だれの目にも丸く見えるんでしょうか?それを「だれが見ても絶対丸く見える」と言い切れるでしょうか・・・?
「見る人が丸いといったから丸なんであって、丸と楕円の区別のつかない人がいたとして、その人がそれを丸だと言ったら・・・?」(区別がつかない=能力がない、ということではないです)
そう考えたら、色や印象だけでなく、モノのカタチだって、自分が見えている通りにほかの人すべてが同じように見えていると信じて疑わないというのは・・・ちょっと考える余地がありそうです。
そこで、ピカソ。
Kissyは絵画のことにはまったく知識がありません。
けれども、ピカソがどんな絵を描いたか、くらいは知っています。
およそ普通の人にはそうは見えないだろう、というような構図の絵や、人の姿を描いて、世界中にインパクトを与えた画家ですよ、ね。
ところで・・・それらの絵、どうなんでしょう?
ピカソ自身にも、そんな風な構図に見えていたわけでも、人が牛や獣の姿のように見えたわけでもないけれども、「表現の一手法として」そういう風に描いた・・・のでしょうか?
ひょっとしたら、そうではなくて、ピカソの目には、あれらの絵に描かれているような構図や姿のとおりに映っていたのでは・・・?それを否定できるでしょうか・・・?
(イヤ、ピカソ自身がどこかで、「私の目にもあんな風には映っているはずがない」と言っているのなら、これは完全にKissyの間違った空想ですけれども、ネ^^;)