今度こそ本当に結論、です^^

kissy(岸本圭史)

2008年02月17日 20:09

さてさて、やぁ~~っと結論です・・・っていってもそんなたいそうなものでは・・・^^;;

「リンゴの色を赤いと言ったからって、自分が感じているのと同じような赤さを、他の人が必ず感じているわけではない」
「映画を見て泣けたからと言って、見る人・見るシチュエーションとは無関係に映画が泣ける理由を厳然と持っているわけではない」

そんなふうに考えると、こんなことを思うようになるんですよ、ね。

「このみかん、甘くてうまいね」・・・そう思ってるけど、「甘さ」は人によって違うよね。
「Webデザインの仕事って、つまらないよね」・・・彼はそういうけれど、ほかの全員がそう思うわけじゃないよ、ね。
「彼は、とっても意地悪な人なんだ」・・・アイツはそういうけど、すべての人が彼を意地悪だと思うわけじゃないよ、ね。

食べる人が変わったらみかんがりんごになる、なんてことはさすがにない。同じ仕事が、彼がやるとWebデザインで、オレがやるとゴミの回収になるなんてことだって、考えられない。同じ人のことを言っているのに、「彼」が「彼女」になるわけじゃない。
みかんそのもの、仕事そのもの、「彼という人間そのもの」が、食べる人、携わる人、接する人によって変わることはないから、それらは一つ一つ、固有のものです。

じゃあ、
「みかんが甘い」
「仕事がつまらない」
「あの人が意地悪だ」

・・・そういうことは?・・・ちょっと考えると、「甘い」のはみかんで、「つまらない」のは仕事なんであって、「意地悪い」のはあの人。それぞれ変えがたい固有のもので、自分がどうこう思ったって、甘いの、つまらないの、意地悪いのは変わらない・・・そう思ってしまいがちです。

けれども、リンゴが赤いのも、映画が泣けるのも、自分の意志とは関係なく、いつ、どこでどんな状況で、どんな理由があっても、常にリンゴが赤いわけじゃないし常に映画が泣けるわけじゃない。
そこに「自分」というものの介在があるから、りんごは赤くなるし、映画は泣けるストーリになる。

そういうことを・・・はたから見ると「馬っ鹿バカしい~」ことをあれや、これや、あーでもない、こーでもない、と考えた挙句、Kissyは、こう思ったんですよ、ね。

「どんなものでも、自分自身の介在なしに、勝手にそのモノが成り立つなんてことはありえない。ということは、逆にいえば、甘かったり、泣けたり、つまらなかったり、赤かったり、意地悪だったりするのは、自分がそこに介在して解釈しているからそうなるのだ」

言い方を変えれば・・・

私の認識しているモノ、色、印象は、私が対象(リンゴや映画や人や・・・)へ働きかけた(見る・観る・接するなどした)結果、「調和」として認識される。
逆にいえば、リンゴが赤いかどうか?映画が泣けるかどうか?その仕事がつまらないかどうか?・・・それは「自分が積極的にそれに意識を振り向けた結果」なのだから、自分の解釈が自分の世界を創るってことにならないか?

そう思ってパッと開けました。

リンゴが赤いのは、自分がその林檎に向き合い、赤いと認識して初めて「自分にとって赤い」と感じるんだよね。
映画が泣けると思ったのは、自分の心に響いたと自分が感じ取ったからだよね。

ならば・・・その仕事がつまらないと思うのは、自分がそう認識しているから・・・仕事を面白く感じるか、つまらないと感じるかは、自分がその仕事にどう向き合い、どう認識するかにかかっている!!
彼が意地悪だというのは、彼が意地の悪いことをしているのではなく、彼のしたことを「意地が悪い」と自分が解釈しているからだ。彼の魅力的な部分に光を当てられるかどうか?は彼にかかっているのではなく、自分自身にかかっている!

そして、それは自分の生きている世界のあらゆることに通ずる話だ、と思うようになったんです。

自分が学生時代、貧乏でたった1円のお金にさえ困ったというのも・・・それは自分が自分そ貧乏だと、そう認識しているからで・・・
今、目の前のお客様にもんのすごい剣幕で苦情を言われている・・・「苦情を言われてつらい思いをしている」と思うのは、自分がそう認識しているからだ・・・

お金に困って貧乏だと思ったといったって、現実に自分は食えずに飢え死にはしなかったんだから、むしろ幸せな生活だったと思えば思えるし、
「苦情」だと思うから「苦情」なんであって、「おまえはそんなレベルの低いヤツじゃないはずだ、頑張れよ!」と叱咤激励されていると解釈して気持ちをそういう風に向ければ、ありがたいと思いこそすれ、辛いとはみじんにも思わない・・・

そう、目の前の現実は、自分の在り様でいくらでも変えられる

自分の人生がつらい人生なのか、悲しい過去を引きずった人生なのか、面白可笑しい人生なのか、それとも豊穣で実りのある充実した人生なのか・・・それは、すでに起きてしまった変えられない「事実」でさえも・・・自分の現在の在り様で、いかようにも変えることが、彩りを鮮やかにすることができる。

・・・たった一つの「そのリンゴは赤いのか?」という疑問を、自分の中で徹底的に突き詰めていったときに、こんな風に人生観をも築き上げるほどに大きな結論になった、というワケです。

で、そういう考えを常に持っていると、仕事が、人間関係が、人生が、うまく運ぶんですよ、ね。

仕事がうまくいかないと嘆くことが少なくなったし、人間関係でつまづくということもだいぶ減りました。そして何より、「今ここに自分がいるという人生がとても充実している」と思えるんです。
そんな風にして、Kissyが学生の頃に考えに考えて結論付けた「そのりんごは赤いのか?」の結論、20年近くたった今頃になって、人生訓として、そして自分の座右の銘ともいえる考え方の一つとして結実しています。

そのりんごの赤は、リンゴそのものが赤いのではなく、自分の心が赤いと感じて認識しているからだ。
同じように、人生を充実したものにしたければ、人生を変えるのではなく充実したものだと思えるかどうか?自分の心を変えればよい。


・・・ちょっと説教臭い・・・人によっては宗教じみた説法のように聞こえるかもしれませんね。決して宗教チックにこういうことを考えているわけじゃあありませんが・・・時折、こういうことをじっくり考えたりは、いまでもしています^^

さてさて、ここまでお読みになった皆さん、いかがでしたでしょうか・・・?

他愛もない、そしてとりとめもないKissyの「そのりんごは赤いのか?」シリーズにお付き合いいただき、ありがとうございました。そして・・・
実はまだまだ、番外編が続きます^^
次回は・・・「世界はそれを愛と呼んでよいのか?」・・・です。

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