今よりもちょっとでいい、豊かな暮らしがしたい
それには、少しでも安い価格で、良いモノを作って提供すれば、みんなが豊かになる
だから、大量にモノを作る技術を開発して、大量の流通に耐えうるノウハウを会得して、大量に販売するシステムを構築する、コレこそが大量消費のニーズにこたえる方策だ
・・・そんな風にして豊かさを享受してきた・・・と、思っていた私。
あの人が食べているのと同じモノを食べたい・・・
あの有名人と同じように着飾りたい・・・
あの会社が享受している莫大な利益・・・同じくらい(いやそれ以上に)儲けたい・・・
それは、私の「欲」だ。
「欲」を否定しろ、「欲」は悪だ、とは私も思わない。
けれども、
いつから「欲望を追求すること」が「正しいこと」になったのか?
コスト下げないと儲からないんだよ、だから、ず~っと遠くの安い工場で作らせてる。キツい仕事は安い労働者にやらせとけ。俺はちゃんとやってるかだけを管理すればいいんだ!
「聞いたのかっていえば・・・聞いちゃってるんですよねぇ。けど、悪い事をしようと思ったわけじゃないし・・・儲けちゃいけないんですか?」・・・だれだってそれをいけないとは言わないでしょ?儲けちゃいけないんですか?
やっちゃいけないのか、そうでないのか?そう問われれば「やってはいけない」という法律などどこにもない。けれども何十年か前、子供の頃、
これらは私にとって「恥ずべき欲」ではなかったか?
欲しがる人がいるから作るんだ。ダメだというなら欲しがらなければいい・・・
そんな恥ずべき根性で、「とりあえず今儲かれば・・・」
それで発展し、大きな収益を上げて、果たして私は「社会に貢献した」と言って恥ずかしくないのか?
もっと安く、もっと見栄えをよく、もっと美味しく・・・金を出してるんだ、要求して当然だ。商品の安全・品質は作った側が保障するのが当たり前だ
大量に作り、大量にさばき、大量に流通し、大量に、大量に、大量に、大量に、便利に、便利に、もっと便利に、安く、安く、安く、もっと安く・・・そうさせたのは、そもそも欲しいと要求した「私」ではないのか?
何もせずに「品質をきちんと管理して欲しい」「ズルをしないでほしい」と言うのか?企業に、生産者にそうさせないための努力は他人任せか?
私自身ができる事を今すぐやる。私自らが働きかける。せめてこれ以上同じ事を繰り返さないように、私自身が、私自身の頭で考え、私自身の良心と向き合って、きちんと考える・・・そういうことをしようという発想・・・そういうものが決定的に欠落している、と最近気づいた。
少しでも安く買うにはどうすればいいか?
この冷凍ギョーザ、安全かどうか、どうすればわかるのか?
この会社、信用できるのか?
・・・テレビで、ラジオで、インターネットで言われている論評を元にして、物事を捉える・・・そんな私、本当に「自分の頭でよ~く考えた」と言えるのか?
リンゴが赤いかどうか?そんなのテレビでは何にも解説してくれないのに、自分で色々と考えたじゃあないか。どうして、「ギョーザが危険だ」という話のときになると「誰が悪いんだ?」と文句を言いたくなるのか?
「そもそもその餃子は欲するべきなのか?」「自分の食べるものの安全を、人任せにしていいのか?」「誰を信用したらいいのか、わからないと開き直って、それでもまだ、誰が作ったのかわからない食材をスーパーへ買いに行く・・・その行動を反省しなくていいのか?」・・・どうしてそんな風に考えられない?
私よ・・・
そして、どうしてそんな風に行動しない?私よ・・・