脳死とは・・・?人が死ぬということは?

kissy(岸本圭史)

2009年06月19日 23:17

このテーマは、非常にデリケートなので誤解・反論も多いかと思います。自分自身も、この記事を書いては見たものの、「右か左か」「アリかナシか」というような明白な結論は出せないでいますが・・・とりあえず今感じていることを・・・

臓器提供を待つ人を救うために、回復の見込みのない脳機能の停止した人を「死亡した」として臓器提供を可能にしたい、それが脳死をめぐる根本だと思うが・・・それは「医学的」そして「法的」な死の判定の話だ。
「実際もうそれ以上回復しないのだから、回復の希望を捨てずに、なんていうのは非論理的だ。それよりも、臓器移植すればわずかながらも回復の可能性の残されている命を救うことのほうが、ひとつでも多くの命を助けるという医学と法律の使命に貢献できる」

そういう、「実証主義的」な論理と医学の功績・法律の規定という観点から要請されるのが「脳が停止したら死んだことにする」という事の意味だと思う。

けれども、「人の死」を「人としての人生を終える」事だと受け止めるのなら、単に物理的な個体・肉体が機能を停止したからその人は死んだのだ、というものの言い方は、ずいぶん乱暴だとも思う。
実際、多くの人が「生きるとはどういうことなのか」「死ぬとはどういうことなのか」「命とは」「尊厳とは」・・・そういう「情緒的」な人生観や死生観、生ということへの価値観ということを、日本人は非常に重く受け止める傾向にあると思う。そういう国民性・風土の中にあって、単に実証主義的な・・・言い換えれば数学的・物理学的な・・・論理だけで「一人の人間の死」を規定するということは、安直極まりないように思う。

人の死は、その人生とその人の尊厳と、生まれた意味、生きた証、そういうものの終焉を迎え、人生に幕を引く、その過程とその時間の中でかかわった人の意識に関する問題だと、僕は思う。そして何よりもそれを優先すべきだと思う。

人としての「死」を迎えたことを確認した後に「脳死」として判定するという順番であるべきだと思うが・・・個体としての機能停止=脳死ということで認めるとなると、「人としての死」「人生を幕引きするプロセスとしての死」というコトが、全くどこにも存在しないかのようになってしまう・・・それを政治が決めたというのが・・・

脳死を人の死とする、という考え方を否定する訳ではないが、今回の国会の決定は、そういう「人の生き死ににかかわる哲学的な考察」=「確固とした信念」が全く欠如しているように思えてならない。
僕は個人的に、今回の決断は、実証主義的思考に政治を明け渡し、価値よりも理念よりも、命の「尊さ」という概念よりも、効率と結果だけを優先するということを決断した、歴史的な誤りを犯した日ではないのか?とさえ思ってしまう。


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